2012年02月01日 公開
2024年12月16日 更新
畠山和洋選手の大抜擢をはじめ、選手の力を引き出す人材活用術にも定評がある小川監督。部下のポテンシャルを見抜く秘訣はあるのだろうか。引き続きおうかがいした。(取材:川端隆人)
※本稿は『THE21』2012年2月号より一部抜粋・編集したものです。
(おがわじゅんじ)
1957年、千葉県生まれ。75年、夏の甲子園の優勝投手(習志野高校)。中央大学では強打者として活躍。社会人野球(河合楽器硬式野球部)を経て、81年にヤクルトスワローズに入団。92年、日本ハムファイターズに移籍、同年引退。93年、ヤクルトに復帰し、スカウト、コーチ、2軍監督などを歴任。2010年、1軍ヘッドコーチから監督代行に就任。11年、正式に監督就任。
「畠山の場合は、潜在能力を引き出したわけではありません。打つことに関しては、二軍のなかで抜きん出ていました。もともと能力が顕在化していたんです。ほんとうの潜在能力を見極めるのはすごく難しいし、なかなかできることではありません。
私はスカウトを3年やったあと、二軍のコーチになりました。そのころには、ちょうどスカウト時代にみていた子たちがプロになっていて、他球団も含めて、多く接することになりました。
すると、『あの選手がこんなに成長するの?』というケースがたくさんあったのです。正直なところ、『こりゃダメだよ』と思っていたのに、他の球団で力を発揮している選手もいます。これには驚かされました。
成長の時期は、人それぞれ違っていて当然です。そのくらいのことは心得ているつもりだったのですが、スカウトという立場では、どうしてもある一時点で判断しなければいけない。そこで間違っても仕方がないでしょう。けれども、『今後は、あまり早くに選手を判断しては絶対にいけないな』ということは感じました。
二軍のコーチを3年務めたあと、二軍監督を9年やりました。そのときは、『こいつは厳しいよな』と思う選手はいっぱいいたのですが、スカウトのときの経験があったので、早くに判断してしまわず、とにかくチャンスを与えることを心がけました。
それで、二軍監督の1年目は、皆に平等にチャンスを与えるようにしました。プロになるからには誰でもいいところをもっているはずで、それにもかかわらず自分という監督のせいでプロとして成功できなかったと思われるのがいちばんつらい。だから、チャンスを平等にしたのです。
ところがシーズンが終わって何が残ったかというと、誰が成長したわけでもないし、誰かを一軍に送り込めたわけでもないし、次につながるものが何もなかった。当時ファームの試合は80試合ほど。ただでさえ少ない試合数を、同じポジションを争う選手数人で分け合ったら、誰も成長しないわけです。
そこで、考え方を変えなければいけないと反省しました。それからは『チャンスは与えるが平等ではない』ということを選手に伝えるようにしました。『こいつは一軍に送り込む』と決めた選手は使い続ける。エラーをしようが、打てなかろうが、です。それ以外の選手は、申し訳ないけれども、少ないチャンスを活かしてもらうしかありません」
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更新:04月19日 00:05