2016年12月16日 公開
2023年07月12日 更新
帰国後、青木氏は京橋の名店「与志乃」で修業を開始。ここでも、文化の違いに驚かされたという。
「卵焼きの作り方1つとっても、作り方がまるで違いました。小さな頃から父の手伝いをしていましたが、仕込みのやり方は店によってさまざま。カルチャーショックを受けつつ、寿司職人としてのキャリアをスタートしました」
修行開始から2年、青木氏は職人としての基礎を学んだ「与志乃」を離れ、先代である父のもとで改めて修行を開始した。ところがその矢先、先代が急逝してしまう。
「いきなり1人で調理場に立つことになりました。基礎は身につけていたとはいえ心許なく、握り方ひとつとっても何が正解なのかわからない」
そこで青木氏は一人で考え込まず、先輩方の店を訪問して、教えを乞うたのだという。
「先輩方には一つひとつを丁寧に教えていただきました。ここで学んだのは、みんなからかわいがってもらうことの大切さ。かわいがってもらえるからこそ、色々なアドバイスをもらえるのです。そのためには、素直であることが一番。素直であるかないかで、実力に大きな差が出てきます」
先代の急逝から、悪戦苦闘の毎日を送っていた青木氏。先代の時代に常連だったお客さんの反応はどうだったのだろうか。
「『がんばんなぁ』と言いつつ足が遠のくお客さんもいましたが、いろいろと指摘しながら通い続けてくれるお客さんも多く、とても助けられました。とくに印象に残っているのは関西からわざわざ通っていただいていたお客さん。その方には、『あきまへん!』と寿司を突き返されたこともあります。『なぜ、美味しいお寿司を出しているのに文句を言われなければならないのか……』と思うこともありましたが、今考えると本当にありがたいことです。だって、お金を払ってまで教えてくれるんですから。ちなみにそのお客さんには20年越しでやっと、納得のいく寿司をお出しすることができ、涙を流して喜んでいただくことができました」
更新:11月22日 00:05