2016年04月30日 公開
2023年01月05日 更新
藤田はビッグマウスで知られる。日本マクドナルドを創業して5年目、1975年度の売上高は、初めて100億円を超えて104億円となった。そのとき、藤田はこう言ってのけた。
「わが国において、企業と称するには最低1,000億円の年間売上げが必要である。これに至らぬものは、いかに有益な企業でも、社会的貢献度においてはしょせん『井の中の蛙』にすぎない。我々が日本のファーストフード界をリードする者であると自負するためには、1,000億円企業であるべきである」
実際に年商1,000億円を達成したのは84年のことだった。
口だけではなく、行動も大胆だった。なんと、PRのために米国大統領を呼んだことさえある。92年に日本トイザらス第2号店を奈良県橿原市にオープンしたときだ。
藤田は、トイザらスで安くおもちゃを提供するためには、問屋を通さず、メーカーと直接取引をする必要があると考えた。しかし、大量に仕入れなければ、直接取引は難しい。そこで、短期間に多店舗をオープンさせようとした。
ここで立ちはだかったのが大店法(大規模小売店舗法)の壁だ。大規模小売店を出店するに当たっては、商調協(商業活動調整協議会)の意見を聞かねばならないことなどが定められていた法律である。商調協は、事実上、既存の小売商店主たちの意見を代弁するもので、大規模店舗の進出を快く思うはずがない。実際、なかなか出店を進められない大手小売業者が多かった。
そこで藤田が目をつけたのが日米構造協議だった。日米貿易摩擦の解消のために進められていたこの協議において、「大店法は非関税障壁だ」と米国に主張させたのだ。もちろんトイザらスは米国企業であり、その他の米国企業も大店法が廃止されれば日本進出が容易になるのだから、米国政府としても理にかなった主張だ。
大店法自体の廃止はのちのことになるが、91年の法改正で商調協は廃止されることになった。トイザらス橿原店のオープンはそのすぐあとのこと。訪日中のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が、そのテープカットのために、大阪空港からヘリコプターで駆けつけた。ブッシュにとっては日米構造協議の成果をアピールする絶好の場であり、藤田にとってはトイザらスのこの上ない宣伝の場になったわけだ。
米国政府まで動かした藤田の交渉力は、マクドナルドの日本での営業権を獲得した際にも発揮されたようだ。中内㓛も熱心に米国マクドナルド社にアピールしたが、条件面で折り合わず、断念している。藤田が合意を引き出せたのはなぜだったのか、詳細は明らかになっていない。
藤田は自らの手法を「ユダヤの商法」と名づけていたが、まさに日本人離れした手腕で小売界を席巻したのだ。
《参考資料》ソニーマガジンズビジネスブック編『常勝経営のカリスマ 藤田田語録』ソニーマガジンズ
《『THE21』2016年4月号より》
更新:11月22日 00:05