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40代でターニングポイントを迎えた名経営者たち

2016年03月15日 公開
2023年01月05日 更新

『THE21』編集部

 

五島慶太(東急の事実上の創業者)
大ピンチが生んだ新しい経営哲学

 1924年に東京横浜電鉄の専務となり、27年には東横線を開通させるなど、鉄道業界で活躍していた五島だが、40代後半のとき、昭和恐慌が状況を一変させた。「私はしばしば自殺を考えるに至るほどの苦しさを経験した」「松の枝がみな首つり用に見えて仕方がなかった」と五島は振り返る。そして、「しかし今にして思えば、すべて信念と忍耐力の問題であった」とも言う。このとき、五島は「予算即決算主義」という経営哲学を確立した。各部課から上がってきた収支の見通しをもとに予算を組むことで、予算と決算を一致させる、今では普通の考え方だが、これは五島の苦しみから生まれたのだ。

1882年、長野県生まれ。1911年、東京帝国大学を卒業し、農商務省に入省。のち、鉄道院に転属。20年、武蔵電気鉄道常務。36年、東京横浜電鉄社長。44年、運輸通信大臣。52年、東京急行電鉄会長。59年、逝去。

 

中山素平(日本興業銀行〈現みずほフィナンシャルグループ〉第2代頭取)
金融界のトップに恐れず立ち向かう

 1950年、川崎製鉄(現JFEスチール)社長の西山弥太郎は、日本初の銑鋼一貫の製鉄所の建設を計画した。財政資金に頼るため、日銀の一万田尚登総裁に話を持っていくが、金融引き締め策を取る中での巨額の投資に一万田は強硬に反対。当時、日銀総裁の意向は、金融界の総意だった。ところが、話を聞いた日本開発銀行出向中の中山は、事業計画を精緻に検討し、有望であると判断して融資を決定。当時、中山はまだ45歳。この案件の成功が、民間による大型投資の流れを生み、高度成長を支えていくことになる。のちに中山は、難題が生じると駆けつけて解決して去るので「財界の鞍馬天狗」と呼ばれる。

1906年、東京府生まれ。29 年、東京商科大学(現一橋大学)を卒業後、日本興業銀行に入行。50年、常務。51年、日本開発銀行に出向。54年、日本興業銀行に戻り副頭取に。61年、頭取。2005年、逝去。

 

本田宗一郎(ホンダ創業者)
40代で訪れた「人生を変える出会い」

 40代にして人生のパートナーと巡り合うこともある。技術の本田宗一郎と経営の藤沢武夫の両輪なくしては今日のホンダはないと言われるが、本田が藤沢と出会ったのは42歳のときだ。2人を引き合わせたのは通産省技官だった竹島弘。そのときのことを藤沢は「あの人の話を聞いていると、未来について、はかりしれないものがつぎつぎに出てくる。それを実行に移してゆくレールを敷く役目を果たせば、本田の夢はそれに乗って突っ走っていくだろう、そう思ったのです」と記している。藤沢にそう感じさせた夢を本田が語ったからこそ、ホンダは飛躍できたのだ。

1906年、静岡県生まれ。22年、二俣町立二俣尋常高等小学校卒業後、アート商会に入社。37年、東海精機重工業(現東海精機)社長。46年、本田技研工業設立。91年、逝去。

 

《ILLUSTRATION:勝山英幸》
《『THE21』2016年3月号より》

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