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“池井戸潤”はなぜ社会現象になったのか?

2014年08月07日 公開
2022年08月08日 更新

香山リカ(精神科医),土井英司(ビジネス書評家)

 

登場人物たちの迷いのなさが爽快

――原作小説もドラマも、そのリアルさが、多くの人を惹き付けたということでしょうか。

【香山】ただ一方で、日本の近代小説には、夏目漱石に始まる「私って何者?」という“自我の追求”が伝統としてあったわけですよね。でも池井戸作品の登場人物には、「銀行員を選んだ私の人生は正しかったのか」といった自我に対する迷いがほとんどない。だから、「人間はもう少し複雑なんじゃない?」という気持ちがないわけではないです。

【土井】佐高信さんが『経済小説の読み方』で「純文学は“他人本位の屈折”を経たことのない作家たちのギルド的文壇文学だった」と書いていました。女性の社会進出も進んで、会社に勤めるのがごく普通のことになったので、経済小説では自我に迷ったりしない人のほうがリアルということなのかも。

【香山】でも、私が産業医をしてきた会社では、「自分の生き甲斐とは何か」「この会社に自分がいる意味は何か」といった、哲学的なテーマでつまずいてしまう人もたくさん相談に来ました。

だから私からすれば、池井戸作品はある意味ファンタジーなんですが、そんな現実を見ているからこそ、半沢直樹のように自分のやるべき仕事を迷いなくやれる人たちの話を読むと、スカッとするのかもしれない。

【土井】池井戸作品は、どれも正義を貫く話ですし、そこも多くの人に受けた理由じやないでしょうか。硬直した組織の中にも、良心を残した人が必ず1人はいることを描いている。おそらく池井戸さん自身が、性善説の人なんだと思います。

――ある種の「単純さ」や「わかりやすさ」があるからこそ、池井戸作品は老若男女にウケだのかもしれませんね。

【土井】池井戸作品のブームは、情報化の影響も大きいと思います。特にSNSが発達した2012年頃から、本は「話題作りのために買うもの」になってしまった。SNSの話題についていくために、話題になっている本を買うんです。

仲間と同じものを消費しないと取り残されてしまうという恐怖感があるんでしょう。だから池井戸作品のように、一度売れ始めた本はSNSのお勧め効果でどんどん売れる。情報が増えると、人間は自分で判断しなくなるということがよくわかります。

【香山】最近は書店でも、ベストセラーランキングに入った本だけを並べた棚を作ることが増えましたよね。私の世代は、むしろ「ベストセラーなんて読まない。人と違うものを読むからカッコいいんだ」という価値観がありましたが、今は完全になくなってしまった。映画『アナと雪の女王』の大ヒットも、周囲に後れを取らぬよう、皆がこぞって観に行った結果ですから。

【土井】僕は大学時代にギリシャに留学したのですが、古代ギリシャは直接民主制による衆愚政治、つまりデマゴーグで滅びましたよね。今の日本も“衆愚”が生まれやすい空気がある。選挙でも「皆がいいと言っているから」という理由で投票先を決める人が多いですね。

【香山】精神分析家のジャック・ラカンは、子供が最初に持つ機能として「想像界」という概念を用いています。まだ「自分」というものを把握できないから、鏡や他者の中に映った像を見て「これは自分なのだ」と認識する機能なのですが、わかりやすい例を挙げると、昔『クイズ100人に聞きました』という番組がありましたよね。

あれは世間の人が一番多く選んだものを当てるという、いわば想像界のゲームです。今は誰もがあのゲームを日常的にやっているようなもので、人が何を一番「いいね!」と言っているのか気にしながら行動している気がします。

 

サラリーマンを肯定し、組織の中で輝く人を描く

――「ブームは大衆の情報リテラシーの欠如から生まれる」というのは、面白いお話です。

【土井】池井戸作品で描かれる銀行の世界って、今の日本の縮図なんです。情報を正しく扱えないから、自分のいる組織が全てだと思ってしまう。実際は一時期より銀行の給与はかなり下がったし、一般企業と特に変わらなくなっているのに、それでも銀行にしがみついてしまうわけです。

これは、世界の市場がどんどん広がっているのに、収縮する日本の市場だけに固執して、勝手に閉塞感を感じている今の日本と同じ構図です。池井戸作品が売れるということは、同じように閉塞感を感じている人がそれだけ多いということでしょう。だから、今いる組織の中だけを見ている内向きな小説という側面はあるんですよね。

【香山】それを良いほうへ解釈すれば、池井戸作品は「組織の中にいても人は輝ける」ということを描いているとも言えますね。理不尽な異動や出向があっても、その場所で頑張ることはできる。

『花咲舞が黙ってない』の原作小説も地味な事務部が舞台ですし、中小企業を描いた作品もたくさんありますが、大企業や花形部署でなくても、人は生き甲斐を見出すことができるという点をちゃんと描いているのは魅力だなと。

【土井】サラリーマンを肯定しているのがいいですよね。それと、今後は『花咲舞~』のように、「組織で生きる女性」を描いた作品がトレンドになりそうな気がします。日本だけでなく、世界中で女性活用の重要性が唱えられていますから。池井戸さん以外でも、このテーマを前面に打ち出した小説が出てきたら、新たなブームにつながるかもしれないと期待しています。

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