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人文学の存在意義とは何か? 『ナラティヴの被害学』 【書評】

2025年10月30日 公開

大村壮太(作家)

阿部幸大による『ナラティヴの被害学』は、2025年に文学通信から刊行された批評集である。

著者の阿部幸大は、筑波大学で教鞭を執り、アメリカ文学、特にベトナム戦争がもたらした文化的影響や戦争表象、さらには日米文化史を専門領域とする研究者として活動している。本書の出版的背景として決定的に重要なのは、前年に刊行された『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』の存在である。

この先行書は、単なる論文作成の技術指導書に留まるものではなく、知を生み出すためのプロセス自体を根本から問い直す内容であった。学生や研究者のみならず、知的な文章作成に関心を持つ広範な読者層に受け入れられ、アカデミックな主題の本としては異例のベストセラーとなった。

この社会的な反響と高い市場評価を受け、本書『ナラティヴの被害学』は、前著で提示されたライティングと思考の方法論を、著者が自身の専門領域においていかに具体的に適用し、学術的成果として結実させてきたかを示す実践編として明確に企図された著作物である。

 

人文学が担うべき根源的な任務

しかし、本書の射程は単なる方法論の開示に留まるものではない。阿部は序文において、人文学が担うべき根源的な任務を、あらゆる暴力の否定にあると定義する。その壮大ともいえる倫理的目標を、文学研究という極めて専門的な領域における緻密なテクスト分析を通じて追求する姿勢を鮮明にしている。

社会に氾濫する「被害」の語り、すなわち特定の被害者と加害者を固定化し、第三者を安全な傍観者の位置に安住させるナラティヴが、それ自体としていかに構造的な暴力を内包し、特定の暴力を不可視化しているかを解明すること。これが、『ナラティヴの被害学』と題された批評集の中心的な主題をなしている。

本書の構成は、その主題を体現するために意図的に設計された、極めて自己言及的な特徴を備えている。全体は複数の独立した論考によって構成されており、それらは必ずしも主題的な連関によってではなく、著者の執筆時系列に沿って配列される。

扱われる題材は多岐にわたり、ティム・オブライエンやヴィエト・タン・ウェンといったベトナム戦争文学の分析、アメリカ社会におけるベトナム帰還兵の表象分析、村上春樹の諸作品における歴史的暴力の表象、さらには日韓のナショナリズムが衝突する慰安婦問題の言説分析など、著者の専門領域に根差しながらも、現代社会の喫緊の課題に直結するアクチュアルな論考が並ぶ。

これらの論考群は、一貫して「被害」のナラティヴが持つ二元論的な構図を批判的に検討し、単純な共感や断罪を退ける。特にベトナム帰還兵の表象分析において顕著であるが、阿部は、帰還兵が被害者であると同時に加害者でもあるという両義的な存在であることを直視し、社会がこの両義性をいかに否認し、いずれか一方の単純な物語へと回収しようとしてきたかを暴き出す。

阿部の論理は、こうしたナラティヴの機能不全を指摘するだけに留まらず、読者自身がそのナラティヴの受益者であり、自らの内なる加害性から目を逸らしている可能性を問い、加害性の再配分という倫理的課題を突きつける。

 

「メタ・ノート」

本書が持つ最大の特徴は、これらの論考本体に加え、各章の冒頭に配置された「メタ・ノート」と呼ばれる解説部分にある。このノートには、各論考の着想の経緯、先行研究との格闘、投稿した学術誌からの査読結果、そして場合によっては厳しいリジェクトの経験と、それを受けた改稿のプロセスが詳細に開示される。

この論考本体とメタ・ノートという二重構造こそ、本書の形式的達成と批評的強度を決定づける最も重要な方法論的仕掛けである。

阿部は、自らが主題とするナラティヴの分析を、論考内容において対象化するだけではない。彼は、学術論文という知の生産システム自体が、特定のナラティヴを認証し、異質なものを排除する権力的な装置であること、すなわちアカデミズム自体が暴力性を帯びたナラティヴの生産工場であることを深く自覚している。

査読プロセスやリジェクトの経験を生々しく開示する行為は、単なる内輪話の暴露ではなく、その権力的な選別プロセスを読者の前に可視化する批評的実践に他ならない。論考本体がベトナム帰還兵の複雑な両義性を単純な物語に回収しようとする社会的ナラティヴの暴力を告発するとすれば、メタ・ノートは、研究者の思考の軌跡を規格化された論文形式へと押し込めようとするアカデミックなナラティヴの暴力を自己言及的に告発する。

このようにして、内容と形式は鏡像的な関係を結ぶ。阿部が提示するナラティヴの被害学とは、外部のテクストを分析する批評理論であると同時に、自らの批評的実践そのものに向けられる内省的な刃でもある。

この構造的特徴は、著者が掲げるあらゆる暴力の否定という倫理的目標が、他者への批判に終始するのではなく、まずもって自己の足場である専門知の生産過程そのものに向けられなければならないという、研究者としての誠実な倫理的態度の表明として機能する。

本書の価値は、個々の論考が提示する知見の鋭さに劣らず、その知見を生み出すプロセス自体を批評的に開示するという、その形式的な徹底性において見出されるであろう。

 

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