
日々、多忙なビジネスパーソン。限られた時間の中で、いかに効率良く知識や教養を身につけるかは、常に頭を悩ませる問題だろう。本連載では、そんな悩みを抱えるビジネスパーソンに、スキル向上に役立つ書籍を厳選してご紹介する。今回は、橘玲著『テクノ・リバタリアン』(文春新書)を取り上げる。

橘玲の著作は、常に現代社会を覆う「正義」や「幸福」といった綺麗事のベールを剥がし、その下に隠された冷徹な現実を暴き出してきた。『テクノ・リバタリアン』は、混迷を極める現代において、リベラルデモクラシーが黄昏を迎えた先に現れる新たな統治の形を大胆に描き出す、スリリングな一冊である。
本書の議論の前提となるのは、橘氏が一貫して提示してきた「リベラル化=能力主義化」という視座だ。身分や出自といった前近代的な束縛から個人を解放するリベラルな社会は、必然的に個人の能力によって成功や富が決まる「知識社会」へと移行する。その結果、生じるのは「持てる者」と「持たざる者」の容赦ない格差であり、この構造こそが現代社会の息苦しさの根源であると橘氏は喝破する。
この冷徹な現実認識の上に、本書は「正義」をめぐる4つの主要な立場―功利主義、リバタリアニズム、リベラリズム、共同体主義―を整理し、現代の政治的対立の地図を鮮やかに描き出す。そして、この伝統的な枠組みそのものを突き崩す、リベラルデモクラシーへのオルタナティブとして「テクノ・リバタリアン」の思想を提示するのである。
テクノ・リバタリアニズムとは何か。それは、ピーター・ティールやイーロン・マスクに代表される、シリコンバレーの卓越した知性と莫大な富を持つ人々が、テクノロジーを駆使して世界をより良く設計し直そうとする思想である。
彼らは、民主主義的なプロセスや官僚制の非効率さを唾棄し、その圧倒的な能力によって、いわばパターナリスティックに社会の新たな秩序を構築しようと試みる。それは、凡庸な大衆に委ねるのではなく、優れた者が賢明に統治する方が、結果として世界はより良くなるという信念に貫かれている。
この動きに対し、本書はもう一つのテクノロジー主導の潮流として、イーサリアムの創設者ヴィタリック・ブテリンらが牽引する「クリプト・アナキズム」を対置する。
彼らは、ブロックチェーンなどの分散型テクノロジーを用いて、国家や巨大テック企業による中央集権的な支配から逃れ、あくまで「個人の自律」を徹底的に守ろうとする。テクノロジーを「支配」の道具とするか、「自律」の砦とするか。橘自身は、クリプト・アナキズムはテクノロジーを駆使できる優秀なマイノリティにしか選び得ない道であるとして、やや批判的である。
そして、本書の白眉は、安藤馨氏の『統治と功利』に触発された「統治功利主義」の紹介を通じて、テクノ・リバタリアニズムが帰結する未来像を冷徹に描き出す点にある。橘はより統治者の視線に立ち「総督府功利主義」という単語を利用する。
総督府功利主義は人々の幸福(快)の総量を最大化することを統治の目的とする思想である。テクノロジーの進化は、これを究極の形で実現可能にする。個人の生体データや行動履歴がリアルタイムで収集・解析され、人々が意識することなく、無意識のうちに「快」の状態へと導かれる社会。
それは、リチャード・セイラーらが提唱したリバタリアン・パターナリズム、すなわちナッジの思想とも通底する、「幸福な監視社会」の到来を予感させる。
私たちは自らの「人格」や「自由意志」を差し出す代わりに、アルゴリズムによって最適化された幸福を手に入れるのかもしれない。テクノ・リバタリアンが目指すパターナリスティックな秩序は、この「人格なき時代の幸福な統治」と極めて親和性が高い。
では、私たちはこの巨大な潮流の中で、いかに生き延びればよいのか。橘は、物理学者のエイドリアン・ベジャンが提唱した「コンストラクタル法則」を社会に応用し、未来を予測する。これは、「流動的なシステムは、流れが容易になるようにその形状を進化させる」という物理法則だ。
例えば、川が下流で複数の支流に分かれるのは、それが最も自然な形で水を伝えることができるからである。情報や富といった人為的でデジタルなものも同様に、より滑らかに流れるように最適化されていくのだ。
その結果として立ち現れるのが、少数のハブと多数の末端からなる階層的な「コンストラクタル構造」の社会だ。グローバルなエリート層から地域の共同体まで、情報や富の流れを最適化する形で様々な階層が形成され、人々はそのいずれかに所属することになる。
重要なのは、この階層や格差という現実から目を背け、「平等と公正」といったリベラル・デモクラシーのお題目を唱えることに終始するのではなく、それを自然な進化の結果として受け入れ、各階層が最適化された「統治」を実現することである。
本書は、リベラルデモクラシーの「次」に来る世界を予見するための、極めて重要な羅針盤となるだろう。それは希望の物語ではないかもしれないが、私たちがこれから直面するであろう「残酷で、しかし幸福な世界」を生き抜くための、知的な武器を与えてくれる一冊である。
更新:07月14日 00:05