
NISA制度の拡充や「貯蓄から投資へ」というスローガンのもと、個人の資産形成における金融の役割がかつてなく高まっている。しかし、その一方で、複雑化する金融商品や市場の変動に対し、十分な知識や判断力、いわゆる「金融リテラシー」を持たぬまま臨むことへの不安もまた増大していると言えよう。
このような時代において、私たち一人ひとりに求められるのは、確かな金融の知識である。そして、その知識は、単に目先の投資手法を学ぶことにとどまらず、金融が社会経済の中で果たしてきた役割や、その歴史的変遷を理解することによって、より強固なものとなる。池尾和人氏の著作『現代の金融入門[新版]』(ちくま新書)は、まさにそうした知的基盤を与えてくれる一冊と言えるだろう。

本書を読み進めると、著者が金融システムの核心に迫ろうとする明快な構成に気づかされる。それは単なる金融用語の解説集ではなく、金融が経済社会で果たすべき本質的な機能とは何か、そしてその機能は時代と共にどう変容し、どのような課題を生み出してきたのか、という大きな問いを追う旅路のようだ。
著者はまず、金融取引の根源に横たわる問題として、取引する者同士が持つ情報に偏りがある「情報の非対称性」を鋭くえぐり出し、そこから「信用」がいかにして創造されるのかを解き明かす。伝統的な銀行システムは、貸し出しを通じて預金通貨を生み出すこの信用創造と、経済取引を円滑に完了させる決済機能の担い手として、長らく金融の中核をなしてきた。
しかし、金利規制の撤廃や業務範囲の拡大といった金融自由化や、情報通信技術の目覚ましい発展は、この銀行中心の構図に大きな変化を促す。かつて銀行が一体的に担っていた機能は、市場メカニズムの中で細かく「分解」され、貸出債権などをまとめて金融商品とする証券化に代表されるように「高度化」していくのである。
ここでは、単なる資金の仲介に留まらず、いかに効率的に情報を生産し、リスクを評価・移転するかが金融機関の新たな、そしてより重要な役割として浮かび上がってくる。
本書の真骨頂は、この金融機能の変容がもたらした光と影を、リーマンショックという未曽有の危機を経験した視点から深く掘り下げている点にある。
金融技術の進展は、デリバティブなどの新しい金融商品を生み出し、資本循環の効率性を確かに高める一方で、新たなリスクを生み出し、それがひとたび制御不能となれば、実体経済からかけ離れた「資産価格のバブル」を形成する。
だからこそ、金融システムの安定性を維持するための金融規制監督のあり方や、危機時における金融政策と中央銀行の役割が、2010年当時の喫緊の課題意識とともに、極めて今日的なテーマとして論じられるのである。
そこには、市場の活力と規律のバランスをいかに取るかという、金融行政における永遠の課題への著者の真摯な眼差しが感じられる。そして、こうした金融システムの大きなうねりは、個々の企業の資金調達や経営規律、すなわち企業の不正を防ぎ効率的な経営を行うための監視・統制の仕組みである「日本の企業統治」のあり方とも深く結びついていることを、本書は示してくれる。
さらに本書は、現代の金融リテラシー向上という観点のみならず、日本の経済史や企業史を深く理解する上でも重要な示唆を与えてくれる。金融は経済活動の血液であり、その流れを理解せずして経済のダイナミズムを捉えることは難しい。
例えば、日本の企業統治を巡る議論では、特定の銀行が企業と長期的な関係を結び経営にも関与するメインバンクシステムをはじめとする日本的経営の特徴が、金融構造と密接に関連してきた歴史的経緯が論じられる。
戦後の高度経済成長期からバブル経済、そしてその崩壊と長期停滞に至るまで、日本経済の歩みは、常に金融システムのあり方と分かちがたく結びついていた。企業の資金調達方法、投資行動、そしてガバナンスの変遷は、金融制度や金融市場の発展と切り離しては語れない。
本書を通じて金融の基本的な枠組みや歴史的背景を学ぶことは、経済ニュースの表面的な理解を超え、より構造的な視点から現代社会を分析する力を養うことにつながるだろう。
読者ターゲットとしては、「入門」というタイトルから金融知識ゼロの全くの初心者を想定すると、やや難解に感じる部分があるかもしれない。実際にオンライン書店のレビューなどでは、「専門用語が多い」「アカデミックな記述で読み応えがあるが、ある程度の前提知識が必要」といった声も散見される。
しかし、経済学部の学生や、金融業界に関心を持つ社会人、あるいは自身の資産形成のために本格的に金融を学びたいと考える人々にとっては、これ以上ない良質なテキストとなるはずである。著者の論理的で骨太な解説は、安易なノウハウ本では得られない本質的な理解へと読者を導いてくれる。
もちろん、2010年の出版であるため、その後のアベノミクスによる異次元の金融緩和や、IT技術を使った新しい金融サービスであるフィンテックの急速な台頭、インターネット上で取引される電子的な資産である暗号資産(仮想通貨)の普及といった、ここ十数年の劇的な金融環境の変化についてはカバーされていない。著者が故人であるため、これらの新しい動きを踏まえたさらなる改訂が望めないのは残念な点である。
しかし、そうした最新の事象を理解する上でも、本書で提示される金融の普遍的な原理や、金融史の中で繰り返されてきたパターンを学ぶことの重要性は揺るがない。むしろ、本書で培った基礎体力があるからこそ、新しい金融現象を冷静に分析し、その本質を見抜くことができるようになるはずだ。
現代は、個々人が自らの判断と責任において資産を管理し、将来に備えることが強く求められる時代である。NISAのような制度は、そのための有力な手段を提供するが、それはあくまで道具に過ぎない。その道具を使いこなし、豊かな実りを得るためには、金融に対する深い理解、すなわち金融リテラシーが不可欠である。
池尾和人氏の『現代の金融入門[新版]』は、金融の本質から説き起こし、その複雑なメカニズムと歴史的背景、そして現代的な課題までを射程に収めた、まさに羅針盤のような一冊だ。
金融の世界への第一歩を踏み出す人にとっても、あるいは既にある程度の知識を持つ人がより深く学びたいと考える場合においても、本書は多くの発見と知的興奮をもたらしてくれるであろう。そしてそれは、不確実な未来を航海するための確かな知恵となるに違いない。
更新:06月18日 00:05