
私たちの日常は、いつの間にか特定の「目的」に最適化され、その達成効率が絶対視されるようになっていないだろうか。新型コロナのパンデミックは、そうした社会のあり様を改めて浮き彫りにした。
イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、当時の状況を鋭く批判し、哲学者・國分功一郎の言う「目的への抵抗」という視点は、アガンベンの問いを現代に生きる私たち自身の問題として捉え直す鍵となる。『目的への抵抗』(新潮社)では、これらの思想を手がかりに、現代社会が抱える課題を読み解いている。

國分功一郎が提唱する「目的への抵抗」とは、ある特定の目的が絶対視され、他の価値観が隅に追いやられる状況に「本当にそれで良いのか」と立ち止まる態度だ。それは、効率や成果という名の絶対的な「目的」の外部に目を向け、多様な生のあり方や見過ごされてきた声に耳を傾けようとする試みと言える。
パンデミック下で「生命を守る」という目的は、疑いようのない正しさを持っていた。しかし、その単一目的が社会全体を覆った時、思考の多様性は失われ、異論を挟むことすら難しい空気が生まれなかっただろうか。この「目的」の絶対化こそ、國分が警鐘を鳴らす点である。
アガンベンは、法的な保護の外に置かれ、生物学的な生存(ゾーエー)のみが問題とされる生命を「剥き出しの生」と呼んだ。パンデミック対策における感染者数や死亡者数といった統計は、まさにこの「剥き出しの生」を社会の前面に押し出した。
しかし、「生命を守る」という目的が「いかに死なないか」という生存維持にのみ収斂する時、私たちは「よく生きること」(ビオス)という、より豊かで人間的な生の側面を見失ってはいないだろうか。
社会的なつながり、文化、精神的な充足感。これらは、「生存」という目的の前では「不要不急」とされがちだが、人間らしい生にとって不可欠な要素のはずだ。経済的効率性や特定の「目的」が優先され、人間が統計上の数値として扱われる現代において、この問いは重い。
國分の言う「目的への抵抗」は、まさにこの「剥き出しの生」への還元に抗い、「よく生きる」とは何かを問い直す知的営為とも言えるだろう。
さらにアガンベンは、「例外状態」の常態化に警鐘を鳴らす。緊急事態を名目に、法の支配が一時停止され、人々の権利が容易に制限される状況が、パンデミック下で「感染拡大防止」という明確な「目的」の下に現実化した。
問題は、こうした状態が恒常化し、日常の管理体制として社会に根付いてしまうことだ。「安全・安心の実現」や「社会全体の効率化」といった「目的」もまた、一度設定されると自己増殖し、権力行使の便利な口実となりうる。その「目的」が本当に追求すべき価値なのか、そのために何が犠牲にされているのかを常に問い続ける姿勢がなければ、私たちは知らず識らずのうちに自由の領域を狭められてしまう。
「感染拡大防止」という目的はまた、アガンベンが諸自由の根源とみなす「移動の自由」をも大きく制限した。移動の制限は、物理的な不便だけでなく、精神的な閉塞感や社会の分断をもたらす。アガンベンは、この根源的な自由の価値を再認識し、その制限に対して敏感であるべきだと訴える。
こうした制限措置の多くが、十分な議論を経ずに行政府主導で決定される「行政権の肥大」も看過できない。ここでも「目的」の緊急性が、民主的なプロセスを省略する理由とされる。しかし、國分が示唆する「冗長性」、つまり効率性だけでは測れない熟議のプロセスこそが、行政権の暴走を防ぎ、「目的」が独り歩きすることを食い止めるために不可欠なのである。
國分功一郎の「目的への抵抗」という議論は、さらに現代人の生のあり方そのものへと深く切り込んでいく。彼によれば、目的に過度に絡め取られた生は、まるで計算可能な「消費」活動のように変質し、行為の価値はその目的達成への貢献度によってのみ測られてしまう。そこでは、何かの「ためになる」ことが至上となり、ただそれ自体として価値のある営みは切り捨てられがちだ。
これに対し國分は、一見「浪費」や「無駄」に見えるかもしれないが、それ自体が目的であるような行為、あるいは目的を超えてしまうような手段に没頭することの重要性を説く。「ただ楽しいからやる」という、目的合理性から自由な体験――例えば「遊び」や「余暇」における没入――こそが、人間的な生の豊かさを取り戻す鍵となる。
この文脈で國分がハンナ・アレントやヴァルター・ベンヤミンといった思想家を参照するのは示唆的である。特にベンヤミンが用いた「純粋な手段」という概念は、特定の目的に奉仕するのではなく、それ自体として意味を持つ行為の可能性を示している。
目的に縛られた手段が、行為を画一化し、あたかも「商品」のように価値づけ、私たちの選択肢を狭めてしまう現実に対し、「純粋な手段」は、行為そのものの内に潜む無限の可能性を指し示す。それは、目的の呪縛から逃れ、人間が単なる「消費者」や「目的達成の道具」以上の存在であることを証明する試みと言えるだろう。
アガンベンの鋭い批判と國分功一郎の「目的への抵抗」という視座、そして「浪費」や「純粋な手段」へのまなざしは、パンデミックを経た現代社会を生きる私たちに、根源的な問いを投げかける。効率や生存といった極めて限定的な「目的」が絶対視される風潮に対し、自らの頭で考え、安易に流されないこと、そして行為そのものの豊かさを見出すことの重要性だ。
パンデミックが露呈させた管理強化や自由の制限といった問題、そして目的に奉仕するだけの生のあり方は、形を変えて私たちの前に現れ続けるだろう。
日常に潜む様々な「目的」に対し、それが本当に私たちのためのものなのか、そのために何を失っているのかを問い続けること。そして、時には「浪費」を恐れず、それ自体が喜びであるような営みに身を委ねること。「目的」に縛られない享楽を甘受すること。それこそが、私たちが自由と尊厳を保持し、より豊かで人間らしい生を追求するための、ささやかだが決定的な抵抗の始まりなのである。
更新:06月17日 00:05