(c)大日本茶道学会 ※写真はイメージです
戦国大名と言えば、国盗り合戦をして全国制覇を狙うもの。そんなイメージは、テレビドラマのみならず、シミュレーションゲームでも広められている。しかし、茶道具や茶席を使った「非言語的なメッセージ」を操る文化力も全国統一には不可欠だったと、大日本茶道学会会長の田中仙堂氏は指摘する。
正倉院に所蔵されている香木「蘭奢待」には、切り取られた跡が残されています。何人が切り取ったのかはわかりませんが、「足利義政」「織田信長」「明治天皇」の3枚の張り札があるのは、明治10年(1877)に調査をした時に、特に著名な人物が切り取った跡に注目がなされたためかと思います。
織田信長は、供奉して上洛した第15代将軍足利義昭を京都から追放した翌年に、蘭奢待の切り取りを朝廷から許されています。信長以前に切り取りを許されたのは第8代将軍足利義政ですから、朝廷から室町将軍に匹敵する位置づけを認められたと説明されたりします。
しかし、信長による蘭奢待の切り取りが、茶会の趣向の一環として計画されていたことはあまり知られていません。
天正2年(1574)3月24日、信長は相国寺で茶会を催し、「千鳥の香炉」と呼ばれる名物の香炉を披露しています。
信長の使者が東大寺に到着したのは、その前日でした。そこで蘭奢待を入手することに成功していたら、信長は、名物の香炉を名香蘭奢待と共に披露して、得意満面だったでしょう。
しかし、それはかないませんでした。信長の蘭奢待切り取りは、勅許がおりたのち、3月28日を待たねばなりませんでした。
この茶会は、信長が催した2度目の茶会です。
信長が初めて茶会を催したのは、天正元年(1573)の11月23日のことです。義昭の策動によって作られた浅井・朝倉・武田の包囲網を打破することで、上洛後5年にして、ようやく茶会を開くことができました。
この茶会で、信長は宿敵朝倉氏が所有していた「瀟湘(しょうしょう)八景図」を茶席に飾っています。しかも、「瀟湘八景図」を重ねて掛けるという扱いをして、参加者に印象づけています。
当時は、手紙と噂話でしか情報が伝わりません。利害関係が絡んでいる場合は、当事者から伝えられるよりも、第三者からの伝聞の方に信憑性があると評価された場合も多かったかと思います。
朝倉氏の家宝とも言える「瀟湘八景図」が、今や信長の手にあると、第三者の証言によって伝えられたらば、その信憑性は非常に強くなるでしょう。茶会に呼んだ堺の商人たちが、他の戦国大名と付き合いがあることを承知した上での、信長の行動であったと思われます。
そんな信長ですから、2度目の茶会の参加者に蘭奢待を入手したことを印象づける方法として、名物の香炉と一緒に披露することを考えていたのではないかと、私は推測しています。
信長は、茶道具に自身の政治的メッセージを託することを発見し、茶席をメディアとして利用したわけです。
ナポレオンも、遠征先で獲得した美術品をルーブル美術館に持ちかえり、諸国からの美術品で増大した美術館の名称を「ナポレオン美術館」と改名させたくらいでした。「フランスになかった歴史的な名画が、今パリにあるのは誰の功績か」ということをフランス国民に知らしめることで、ナポレオンは、自らを国王と認めさせたとも言えましょう。
現代においても、訪問先の応接間にかかっている絵画類を見たら、どんな由緒があって、それを所有者がどんな意図で飾っているのかを考えてみる必要があるかもしれません。
教養がないから由来はわからないなどと、あきらめる必要はありません。「この絵の作者は誰ですか?」などと話題を向けてみればいいのです。調度品に関心を示しただけでも、まったく無関心の人と差をつけられるでしょう。もしも由緒や意図があったならば、相手は「ここぞ」とばかりに話してくれるはずです。
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家督を譲っても茶道具は譲らないことで価値を高めた >
更新:11月23日 00:05