2021年07月08日 公開
とことん現場に寄り添う姿勢の根本には、長年営業マンとして汗を流してきた自らの経験がある。
「入社以来40歳過ぎまで、営業の現場を駆けずり回りました。その中では、上層部の方針との間にギャップを感じたことも多くあります。お客様のニーズに沿わない会社都合の考え方、意味や意義の説明もなく振られる指示など。
若い頃から違和感を覚え、中間管理職時代は『上司の顔色をうかがわず、部下を見るリーダーであろう』と思っていました。上に立つ者ほど、下を向いて仕事をするべきだと」
とはいえ、実際にこの姿勢を貫くのは容易ではない。布施氏自身も何度となく、壁にぶつかったことがあるという。
「最も苦労したのが、2008年より務めた大阪支社長時代です。ここは全国の中でも難しい現場として有名で、実際乗り込んでみると、確かに不満と無気力感の漂う最悪の雰囲気でした。そして全体を見ると、やはり上の方針が、閉塞感につながっていることが見えてきたのです」
当時、近畿エリア全体を束ねる統括本部が重視していたのは「成果指標」。商品ごとに点数が決まっていて、その合計の営業目標が各プレイヤーに課される形だが、それは「数字さえクリアすればOK」という気風につながっていた。
「いわば『点取り虫営業』になるのです。懇意にしている酒屋さんにワインを一定数仕入れてもらって目標達成、あとは何もしなくていい……という慣習ですね。
この手法、数字上は問題なくとも、実際は市場との接点が少なく、本命のビールで他社さんに負け通し。そして何より、各メンバーの仕事へ向かう姿勢が『幸せ』に見えない。このままではいけない、と思いました」
大阪支社長就任直後から様々なアプローチを仕掛けたものの、最初はまるで効果なし。その中で、布施氏自身も『部下のせいで』という他責の発想に流れていた、と振り返る。
「自分自身が営業時代に成果を出してきたこともあり、『なぜ同じようにできないのか、なぜ言った通りにしないのか』と不満を募らせていました。しかしそれは彼らが悪いのではなく、彼らをその気にできない私のせいだと、あるとき気づきました。そこで年末の全体会議で、今年成果が出せなかったのは自分のミスだ、と頭を下げました。今思えば、その頃から潮目が変わったのかもしれません」
そんな矢先の翌09年、主力商品「一番搾り」が麦芽100%にリニューアル。布施氏はこれを機に、同商品に全力を傾ける戦略を立てた。市場との接点を大量に増やし、一点突破で起死回生を図ろうと考えたのだ。
「しかしこの戦略は、近畿圏統括本部の方針とは違いました。大阪は『ラガー』の市場だから今まで通りでいいのだ、と言われましたが……そのラガーでずっと負けを喫してきたのに、納得できるはずがありません」
そこで布施氏は、極めて大胆な策に出る。
「自分のやり方を通す作戦に出ました。表立っては反発せず、さりげなくやりたいことを実践してやろうと(笑)。そうする以上は、成果を出さなくてはいけません。これまで点稼ぎに使ってきたワインや焼酎の営業をいったん中止し、『一番搾り』に集中して一つでも多くの新規顧客を獲得せよ、と皆に告げました」
現場でも抵抗は強かった。点数が下がることを危惧し、動こうとしないメンバーが多い中、布施氏が着目したのは、一人の若手営業だった。
「組織改革を図るときには必ず、一定の分布ができます。改革に賛同する少数、反対する少数、様子見の大多数。このうち、改革賛同派が先だって成果を出せば、大多数もそちらにつられ、やがて全員がなだれ込む。若手に、その旗手を担ってもらったのです」
その作戦は大成功を収める。若手が大量の新規顧客を獲得したことで、中堅やベテランも負けじと次々に成果を出し始めた。市場との接点が広がり、「捨てた」はずのワインや焼酎の売上までもがアップ。同年末、大阪支社は会社の業績に多大な貢献をしたとして「キリンビール大賞」を受賞するに至った。
「そのパーティの席上、定年退職を控えたベテラン営業が、『会社生活の最後にこのような仕事ができて幸せです』とスピーチしてくれました。リーダーの仕事ができた、と実感できた瞬間でした」
次のページ
「俺が社長になってやる」という人は、社長になれない >
更新:11月24日 00:05