2019年06月14日 公開
2023年05月16日 更新
小説という形式の特長として、文章でありながら、まったく非論理的なことでも伝えられる、ということがあるのではないでしょうか。
小説ではない文章は、厳密にはそうでない場合も多いにせよ、いくらかは論理的たらざるを得ないところがあると思います。逆に言えば、「太陽が眩しかったから人を殺した」などという非論理的な文章を読めば、小説だろうと推測できます。非論理的な表現を指して「文学的」と称することすらあります。
人間というものは、その内面も、他者とのコミュニケーションも、必ずしも論理的ではありませんから、人間を文章だけで表現するのは極めて難しいと思うのですが、小説という形式を取れば、なんとかそれができる。とりわけ、近代文学の、純文学と呼ばれる小説は、その役割を果たしてきたのではないか、と、誠に勝手ながら思うのです。
『菜食主義者』は、非論理的なことを様々な象徴を使って表現している小説で、その点で実に小説的、純文学的な作品です。三つの中編小説を収録していて、キム・ヨンヘという女性を、それぞれ違う人物の視点から描いています。
ヨンヘは、ある日突然、菜食主義者になり、のちには一切の食事を拒否するのですが、その理由は(普通の人には)訳のわからない象徴的な夢を見たからというもので、まったく論理的に理解できない。精神病院の医師は「精神分裂病でありながら食事を拒否する特殊なケース」と診断するのですが、精神医学というのは、人間の非論理性を科学的に捉えようとする近代の営みでしょう。
この作品に登場する様々な象徴の意味を読み解くことは、とても私にはできませんが、ヨンヘはモノを食べずに光合成をする植物になろうとしており、植物には動物が対置されていて、動物は欲望を持っている。ヨンヘが植物になろうとしているのは、動物の欲望から逃れるためだということは、かなり明示的に書かれているように思います。動物の欲望というのは、端的に言ってしまえば、男性からの視線でしょう。
収録されているうちの1作目「菜食主義者」は、ヨンヘの夫の視点から描かれています。夫はヨンヘを「特別な魅力がないのと同じように、特別な短所もない」「無難な性格」の女性だと見ていました。ヨンヘは、菜食主義者になることによって、夫からのその期待に応えることをやめます。
2作目「蒙古斑」は、ヨンヘの義兄(姉の夫)の視点から描かれています。芸術家である義兄は、「ヨンヘは(蒙古斑が)二十歳まで残っていたのよ」という妻の言葉を聞いて以来、ヨンヘに対して性欲を覚えます。ヨンヘはそれに対して、植物として、向き合うことになります。
「訳者あとがき」で、きむ ふな氏は、「植物と動物、この二つの世界の狭間に立たされているかぎり、登場人物はあえぎ続ける。それでも、欲望や怒り、憎しみなどに振りまわされ葛藤する獣の世界とその欲望から抜け出した植物の世界のぶつかり合いは、その対立的な意味にもかかわらず、生命のエネルギーを発する」と書いています。
収録されている3作目「木の花火」は、姉の視点からヨンヘを描いているのですが、点滴も拒否し、極限まで植物に近づいていこうとするヨンヘの姿は悲愴に感じました。一切の欲望がない植物の世界も、動物の世界と同じく、理想的な世界ではないのでしょう。
「あなたが! 死んでしまうかと思って心配しているからじゃない!」と姉に言われたヨンヘは「……なぜ、死んではいけないの?」と答えますが、生きるということは、動物と植物が衝突し続ける状態のことなのかもしれません。
執筆:S.K
更新:11月22日 00:05