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ある日突然、家族が犯罪加害者になったら? 『夫が痴漢で逮捕されました』 【書評】

2025年09月28日 公開

大村壮太(作家)

ある日突然、家族が犯罪加害者になったとしたら。その日から、あなたの日常は一変する。警察からの電話、事実確認の混乱、被害者への謝罪、そして、社会からの容赦ない非難と制裁。斉藤章佳氏の著作『夫が痴漢で逮捕されました』(朝日新聞出版)は、多くの人にとって「他人事」であるはずの出来事が、いかに生身の人間の生活を根こそぎ破壊していくかを、痴漢加害者の妻の視点から克明に描き出したルポルタージュである。

著者は、長年依存症臨床の現場、特に性犯罪加害者の治療プログラムに携わってきた精神保健福祉士だ。その専門的知見に裏打ちされた描写は、単なる個人の体験談にとどまらず、現代日本社会が抱える根深い病理を鋭くえぐり出す。

本稿では、本書が提示する3つの重要な論点、「加害者家族支援の絶望的な遅れと未熟な市民社会」「根強いジェンダーバイアスと不在の父親」「『責任』概念の再考と回復への道」を軸に、その射程を多角的に紹介したい。

 

日本の「加害者家族支援」

本書がまず突きつけるのは、日本の「加害者家族支援」がいかに絶望的なまでに未整備であるかという現実だ。日本社会に深く根付く「世間」という名の同調圧力と、加害者をその家族と同一視する前近代的な規範意識は、加害者家族に対する誹謗中傷や社会的排除という形で表面化する。法の下では、責任を負うのは加害者本人である。

しかし、ひとたび事件が起これば、人々は「家族にも責任がある」「育て方が悪かった」という素朴な倫理観に基づき、家族を断罪し始める。加害者と家族を別々の個人として捉えることができず、「一心同体」の存在として一緒くたに非難の対象とする。この社会の未熟さが、加害者家族を出口のない孤立へと追い詰めていく。

著者が加害者臨床の専門家であるからこそ、その描写は圧倒的なリアリティを持つ。家族が直面する手続きの煩雑さ、経済的困窮、そして何よりも精神的な苦痛が、丹念に描き出される。弁護士を探す困難、被害者との示談交渉、そして世間の冷たい視線に耐えながら、それでも日常を維持しようともがく姿。それは、「自分は関係ない」と思っている読者に対して、誰もが明日にでも陥る可能性のある地獄をまざまざと見せつける。

被害者支援の重要性が叫ばれて久しいが、その一方で加害者家族は支援の網の目から完全に見捨てられている。彼らが社会的に「死ぬ」ことで、本当に社会の正義は果たされるのか。本書は、その単純な二元論に静かに、しかし力強く異を唱えるのである。

 

加害者家族をめぐる問題に色濃く影を落とすジェンダーバイアス

本書が描き出すもう一つの重要な論点は、加害者家族をめぐる問題に色濃く影を落とすジェンダーバイアスだ。例えば、男性が性加害のような事件を起こした場合、社会的な非難の矛先は主に妻や加害者の母親へと向けられることが多い。メディアも世間も、「妻の監督不行き届き」や「母親のしつけ」を問題にする。

一方で、加害者の父親は物語の中でほとんど存在感を示さない。彼は責任を追及されることもなく、問題の蚊帳の外に置かれている。

これは、臨床心理士の信田さよ子氏が長年指摘してきた「父親の不在」という問題と軌を一にする。日本の家父長制的な家族観の中では、子育てや家庭内の問題は女性の責任領域とみなされ、父親は経済的な役割さえ果たしていれば、その責任を免除されがちだ。事件が起きても、矢面に立つのは常に母親や妻であり、父親は「仕事があるから」という理由で当事者であることを回避できてしまう。

この構造は、加害者自身にも内面化されている。本書で描かれる自助グループの場面は象徴的だ。加害者である夫たちは、自らの加害行為について語る際も、どこか他人事のように振る舞う。妻が感じる絶望と、夫の当事者意識の欠如との間には、深い溝が横たわっている。

彼らは「男社会」の規範――弱さを見せてはならない、感情を表現してはならない――に縛られ、自らの内面と向き合うことができない。その結果、家庭や自身の問題に主体的にコミットすることができず、そのツケを妻や母親に押し付けているのだ。

 

「責任」という概念

本書が迫る第三の論点は「責任」という概念の再考である。加害者家族との対話の中で、加害者が「自らの行為の原因が幼少期の親との関係、すなわちアダルトチルドレンとしてのトラウマ」によって引き起こされたと主張し始めた事例が紹介される。

これは、加害者自身が回復の道を歩み始める上で重要な一歩になりうると同時に、極めて複雑で難しい問題を提起する。トラウマが原因だという主張は、「だから自分は悪くない」という責任転嫁の論理にも繋がりかねないからだ。私たちは、加害の「責任」をどう定義し、誰が、どの程度引き受けるべきなのだろうか。

まず、加害者本人には加害に対する「法的な責任」がある。これは刑事罰や損害賠償といった形で明確に規定される。しかし、現実はそれだけでは終わらない。社会が加害者家族に求める「社会的・倫理的な責任」が存在する。

この後者の責任には明確な境界線がなく、それゆえに無限に拡大し、家族の生活を破壊する凶器となりうる。本書は、この法的な責任と社会的・倫理的な責任の間に横たわる広大な領域こそ、私たちが向き合うべき課題だと示唆している。

加害者の回復と、その家族が再び社会で生きていくための支援は、単なる「お情け」や「福祉」の問題ではない。それは、私たちの社会が、構成員の誰一人として見捨てないという覚悟を持つための、極めて重要な実践なのだ。

加害者が自らの行為の責任を法的に取ると同時に、その行為がもたらした影響を理解し、回復への道を歩むこと。そして、そのプロセスを家族や地域社会が支えていくこと。そのためには、まず誰よりも加害者家族が社会から排除されず、支援を受けられるセーフティーネットが不可欠なのだ。

『夫が痴漢で逮捕されました』は、痴漢という一つの犯罪を入り口に、現代日本社会が蓋をしてきた数多くの不都合な真実を暴き出す。それは、匿名性の陰で他者を石打にする市民社会の未熟さであり、家庭内外に蔓延るジェンダーバイアスであり、そして「自己責任」の名の下に困窮者を見捨てる冷淡さである。

本書を読む体験は、決して快適なものではない。しかし、この息苦しい現実から目を背けていては、何も変わらない。私たちは、いつ加害者家族の隣人になるかもしれないし、あるいは当事者になるかもしれないのだ。そのとき、私たちは彼らにどのような眼差しを向け、どのような社会を差し出すことができるのか。

斉藤章佳氏が突きつけるこの重い問いは、法や制度の問題であると同時に、私たち一人ひとりの倫理観と想像力が試される、避けては通れない課題なのである。本書が、加害者家族という沈黙を強いられてきた人々への理解を深め、より成熟した市民社会を構想するための一助となることを切に願う。

 

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