
レジー氏の『東大生はなぜコンサルを目指すのか』(集英社)は、そのタイトルから想像されるような、単なる業界研究や就活指南書ではない。むしろ、東大生やコンサルという現代の価値観を象徴する存在を巧みなフックとし、令和の日本社会に生きる私たちが囚われている「成長」という神話の構造を解き明かし、その息苦しさの正体に迫る、卓越した社会批評の書である。
会社員として戦略やマーケティングの実務に携わる著者が、ポップカルチャー批評家として培ってきた鋭利な視点を交えながら、現代のビジネスパーソンが共通して抱えるキャリア不安の深層を、見事に描き出している。
本書の議論の核心は、若者のキャリア選択の根底には、時代を超えて「安定」への希求があるという指摘から始まる。しかし著者は、その「安定」という言葉の内実が、過去数十年で劇的に変容したことを丹念に解き明かす。
かつて日本社会が共有していた安定とは、終身雇用と年功序列、そして企業別組合という「三種の神器」に守られた大企業や官公庁への所属を意味した。組織の成長と個人の成長がほぼ一体化しており、一つのレールの上で真面目に働き続ければ未来が保証されるという、いわば静的で受動的な安定だった。
しかし、1990年代のバブル経済崩壊以降、その日本的経営モデルは徐々に侵食され、崩壊していく。転職が常態化し、未来が予測不可能なVUCAの時代において、安定の定義は「組織への帰属」から「個人が持つ市場価値」へと完全にその重心を移したのである。
この新しい安定観が、「安定したいから、成長したい」という現代特有の逆説的な欲望を駆動させる。いつ、いかなる組織からも放り出されるかもしれないという潜在的な不安が、常に自身の価値を高め続けなければならないという強迫観念へとつながるのだ。
その中で、コンサルティングファームは、高給という魅力以上に、MECEや仮説思考といった、いかなる組織でも通用する「ポータブルスキル」を、数年という短期間で集中的に習得できる「最も潰しの効く」キャリアの入り口として、エリート学生たちから合理的な「安パイ」として選択されている。
それはもはや、何かを成し遂げたいという純粋な自己実現のための成長ではなく、変化の激しい環境の中で振り落とされないために走り続けなければならない、終わりのない競争への参加表明に他ならない。
著者の分析が秀逸なのは、この「成長し続けなければならない」という時代の空気が、ビジネスの世界に留まらず、社会の隅々にまで浸透していることをポップカルチャーの事例から鮮やかに浮かび上がらせる点だ。
例えば、野球という一つの目的のために生活の全てを最適化する大谷翔平の姿は、自己を戦略的に投資し価値を最大化する、理想的な「成長アイコン」として受け止められる。
また、アイドルの宮脇咲良が、国内のHKT48から日韓合同のIZ*ONE、そしてグローバル資本であるHYBE傘下のLE SSERAFIMへとキャリアを飛躍させる様は、自身の市場価値を冷徹に見極め、より有利なプラットフォームへと転職を繰り返す外資系ビジネスパーソンの姿と重ねて描かれる。こうした物語は、常に自分を成長させ、アップデートし続けることが「正解」であるという価値観を社会に浸透させている。
こうした近視眼的な成長信仰は、実際は社会に対して深刻な弊害もたらしている。コンサル的なフレームワーク思考は、一見すると知的で効率的に見えるが、個人のこだわりや直感、迷いといった測定不能な「属人性」をノイズとして排除する傾向がある。それは、長期的なイノベーションや、本質的な創造性の芽を摘みかねない。
また、昨今の「言語化ブーム」も、未知の事象に言葉を与える本来の創造的行為ではなく、既存のフレームワークに物事を当てはめて「頭が良い」と見せるための構造化欲求の表れであろう。
さらに、成功者の努力論だけが切り取られ、その陰にある無数の失敗が見えなくなる生存者バイアスの問題も深刻だ。イチローのような成功者の言葉だけがもてはやされ、「努力すれば報われる」という単純化された物語が、構造的な問題を覆い隠してしまう。
では、この息苦しい消耗戦から、私たちはどのように抜け出すべきか。本書は単に成長を否定するのではなく、最終章で「成長に囚われずに、成長と生きる」ための、よりしなやかで実践的な思考法を複数提案する。
その一つが、与えられた仕事をそのまま受け入れるのではなく、自らの手で仕事の範囲や意味を主体的に再定義し、やりがいを見出す「ジョブ・クラフティング」である。
また、仕事の不条理や理不尽さを真正面から受け止めて苦しむのではなく、ある種のゲームのように捉え、適度な距離感を保ちながら楽しむ「半身」の姿勢も、ストレスフルな環境で生き抜くためのレジリエンスを高める上で有効だ。
また、自らのキャリアや人生は完全にコントロール可能である、という幻想そのものを手放すことも重要だ。成長やスキル、戦略的なキャリアパスへの固執は、根を辿れば、本質的に不確実な未来をどうにか管理し、予測可能なものにしようとする現代的な不安の表れに他ならない。
本書は、人生を最適化すべきプロジェクトと見なすその姿勢こそが、予期せぬ出来事に対処する力や、回り道がもたらす豊かさを奪っていると説く。ゆえに求められるのは、より洗練された勝利の戦略ではなく、不確実性を受け入れ、偶然性の流れに身を委ねる勇気なのである。
本書は、キャリアに悩む若い世代はもちろん、「成長」という言葉に漠然としたプレッシャーを感じる全ての現代人にとって、思考のOSを書き換えるきっかけを与えてくれる、知的な処方箋である。不安定な時代だからこそ求められる、本当の意味での強かさとは何か。終わりのない競争から自ら降り、自分だけの価値基準を取り戻すための知的武装として、本書が持つ意味は計り知れない。
更新:10月04日 00:05