
日々、多忙なビジネスパーソン。限られた時間の中で、いかに効率良く知識や教養を身につけるかは、常に頭を悩ませる問題だろう。本連載では、そんな悩みを抱えるビジネスパーソンに、スキル向上に役立つ書籍を厳選してご紹介する。今回は、小川さやか著 『「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済』(光文社)を取り上げる。

ビジネスの世界は、計画、目標設定、KPI、将来予測といった言葉で満ちている。四半期ごとの目標達成、5年後、10年後を見据えた事業計画。私たちは常に未来をコントロールしようと努め、不確実性を可能な限り排除しようとする。だが、現実はどうだろうか? パンデミック、地政学的リスク、技術の破壊的変化...私たちの日常は、予測不能な出来事の連続だ。
そんな時代に、アフリカ・タンザニアの路上でたくましく生きる人々の「その日暮らし」から、私たちは何を学べるだろうか? 文化人類学者の小川さやかによる『その日暮らしの人類学 もう一つの資本主義経済』は、私たちの凝り固まった常識を鮮やかに解きほぐし、新しい生き方、そして「豊かさ」の可能性を提示する刺激的な一冊だ。
本書の舞台は、東アフリカ・タンザニア最大の都市ダルエスサラーム。著者は、そこで零細な商いを営む「マチンガ」と呼ばれる人々の中に長期間飛び込み、彼らと共に生活し、時には自らも路上で商売をしながらフィールドワークを行った。
彼らの多くは、文字通りの「その日暮らし(Living for Today)」を実践している。明日のことは考えず、手元にお金が入れば気前よく使い、将来のために貯蓄するという発想は希薄だ。人間関係は、貸し借りや、時には騙し騙されの関係が複雑に絡み合い、一見すると不安定で刹那的に見えるかもしれない。
しかし、著者の緻密な観察は、それが単なる無計画さや場当たり的な生き方ではないことを明らかにする。彼らは、未来を計画しない代わりに、目の前の状況や人間関係に全身で向き合い、変化に即応するための独自の知恵、いわば「狡知(ウジャンジャ)」を駆使して日々を生き抜いている。そこには、困ったときには誰かが助けてくれるだろうという、独特の相互扶助の感覚と、それを支える「貸し借り」のネットワークが存在するのだ。
本書を読むと、私たちがいかに「計画」や「将来への備え」という価値観に縛られているかを痛感させられる。「老後資金はいくら必要か」「キャリアプランはどう描くべきか」。未来への不安から、私たちは現在を犠牲にしてでも、不確実な未来をコントロールしようとしがちだ。
しかし、タンザニアの商人たちの生き方は、そうした「計画信仰」に揺さぶりをかける。彼らは、未来を予測しコントロールしようとする代わりに、不確実であることを前提として受け入れ、その時々の状況に応じて最も有利な選択肢を選び取る柔軟性と大胆さを持つ。不安定に見える彼らの生活は、実は変化に対する驚くべき「レジリエンス(回復力・しなやかさ)」を秘めているのだ。
ネット上の書評や感想を見ると、「計画を手放す勇気をもらった」「効率や安定だけが価値ではないと気づかされた」「自分の悩みがちっぽけに思えた」といった声が数多く見られる。特に、変化の激しい現代社会でプレッシャーに晒されるビジネスパーソンにとって、彼らの生き様は、既存の価値観から自由になるためのヒントを与えてくれるようだ。
彼らの社会を支える重要な要素が「贈与」の習慣だ。手に入れたものを気前よく他人に与え、また他人からも気前よく受け取る。それは必ずしも見返りを期待したものではないが、結果的に「貸し借り」のネットワークが社会全体に張り巡らされ、誰かが困窮したときのセーフティネットとして機能する。
小川氏は、これを「自分の『分身』を作っているようだ」と表現する。他人に「借り」を作っておくことで、自分が困ったときに助けてもらえる可能性を社会の中に分散させておく、という考え方だ。
短期的な損得勘定ではなく、長期的な視点での信頼関係の構築。これは、現代のビジネスシーンで注目されるコミュニティ形成や、ネットワーク資本の考え方にも通じるものがあるのではないか。人を信頼しないことを前提としながらも、結果的に強い相互扶助の関係性が生まれている点は、非常に興味深い。
もちろん、タンザニアの路上商人たちの生き方を、私たちがそのまま真似ることはできないし、すべきでもないだろう。本書も、彼らの生き方を理想化しているわけではない。
しかし、その根底にある価値観から学べることは多い。未来への過剰な不安やコントロール欲求を手放し、「いま、ここ」の状況と人間関係を大切にする姿勢。変化を恐れず、チャンスがあれば躊躇なく飛び込むフットワークの軽さ。そして、効率や生産性だけではない、人との繋がりの中に豊かさを見出す感性。
これらは、先行き不透明で、計画通りに進まないことの方が多い現代を生き抜く上で、重要なヒントを与えてくれる。不確実な未来をただ恐れるのではなく、むしろそれを「面白がる」くらいの、したたかさとしなやかさを身につけるためのヒントが、本書には詰まっている。
『その日暮らしの人類学』は、文化人類学のスリリングなフィールドワークの記録であると同時に、現代社会、そして日々「計画」と「効率」の中で格闘するビジネスパーソンに、根源的な問いを投げかける一冊だ。常識という名の檻から一歩踏み出し、働き方や生き方のオルタナティブを探りたいと考えるなら、ぜひ手に取ってみることをおすすめする。あなたの価値観は、きっと揺さぶられるはずだ。
更新:05月03日 00:05