2021年03月23日 公開
2022年10月11日 更新
パイプハウス
完成したパイプハウスは、まさに建築の革命であった。ただ、新しいものは市場に理解されにくい。パイプハウスも当初は苦戦して、営業をかけても門前払いが続いた。風向きが変わったのは、国鉄(現・JR)の簡易宿舎や資材倉庫に採用されてからだ。
国鉄も最初は冷淡な対応だったが、石橋は正論で勝負に出た。大阪から夜行列車に乗って国鉄本社の局長に会い、ワイシャツの襟を見せてこう言い放ったのだ。
「ご覧の通り、1日列車に乗っただけで、こんなに汚れています。(中略)いつまでも石炭の汽車をノロノロ走らせているのではダメでしょう」「乗客を快適に運ぶために、電化を早く進めてください。そのためにパイプハウスを利用してくださいと、おすすめしているのですよ」(『運命の舞台 起伏七十七年』より)
相手を怒らせかねない直言だったが、結果的にこの言葉が局長に響き、国鉄はパイプハウスの導入を決定。それが信用されるきっかけとなり、電電公社(現・NTT)や官公庁などにも採用されて、急速に全国に広まっていった。
ミゼットハウス
大和ハウス工業が次に起こしたのは、住宅革命だった。
釣りが趣味の石橋は、日が暮れても遊んでいる子供を見つけた。早く家に帰るよう諭すと、「家に帰っても狭くて勉強できない。自分の部屋が欲しい」と返ってきた。
これにヒントを得て、安くて簡単に建てられる勉強部屋を商品化。59年に「3時間で建つ11万円の家」というキャッチフレーズで売り出した「ミゼットハウス」だ。
ミゼットハウスの大反響を受けて、本格的なプレハブ住宅の開発に着手。また、民間初のデベロッパー大和団地を創業して大型住宅団地を開発。現在の住宅ローンの先駆けとなる「住宅サービスプラン」を生み出し、世に送り出すなどして、プレハブ住宅は一気に普及していった。
さらに石橋は、高度成長を経験した日本人が、いずれ物質的な豊かさだけでなく、本当の豊かな生活を求める時代が来ることを予見する。
働きづめの生活に革命を起こすべく、リゾートホテル事業にも着手して、78年には「能登ロイヤルホテル」を開業した。ホテル事業は現在、ビジネスホテル分野にも発展して、グループを支える事業へと成長している。
卓越した先見力で建築、住宅、生活に革命を起こしていった石橋だが、予想外の事態に直面することもある。64年、突如として経営危機の噂が流れて、株が暴落。
財務体質は良好だったが、否定するほど勘繰られて、取引先が動揺して現金決済を求め、本当に資金繰りが悪化していくという悪循環に陥った。
幹部は社員への賞与の支払いを止め、株価を買い支えようとした。しかし、石橋は「動揺するな」と一喝して、社員に賞与を即日で支払い、冷静に売掛金の徹底回収などの指示を出した。
「得意先からの事情説明の電話があった場合、正直に説明すればよい。ただし、つとめて明るい声でな。笑顔千両だ」(『運命の舞台 起伏七十七年』より)
この指示が功を奏して信用が回復して、同社は見事に経営危機を脱している。
2003年、石橋は81歳でこの世を去った。コロナ禍で世の中が暗いムードにある今、石橋ならどのような声を社員にかけただろうか。想像は尽きない。
【石橋信夫の経歴】
1921(大正10年)奈良県吉野郡川上村に生まれる。
1939(昭和14年)奈良県立吉野林業学校卒業後、満州営林庁敦化営林署勤務。
1942(昭和17年)前橋陸軍予備士官学校卒業、昭和23年復員。
1955(昭和30年)「建築の工業化」を理念に大和ハウス工業㈱を創業。常務取締役。創業商品「パイプハウス」。
1959(昭和34年)「ミゼットハウス」発売。我が国で初めてプレハブ住宅の道を拓く。
1963(昭和38年)大和ハウス工業㈱代表取締役社長就任。
1971(昭和46年)社団法人経済団体連合会理事就任。
1978(昭和53年)社団法人プレハブ建築協会会長就任。
1979(昭和54年)紺綬褒章受章。
1980(昭和55年)大和ハウス工業㈱代表取締役会長就任。
1982(昭和57年)藍綬褒章受章。
1989(平成元年)住宅建設業団体協議会会長就任。
1992(平成4年)大和ハウス工業㈱代表取締役相談役就任。
1993(平成5年)勲二等瑞宝章受章。
1997(平成9年)社団法人住宅生産団体連合会会長就任。
2003(平成15年)81歳で逝去。従三位勲一等瑞宝章受章。
更新:11月24日 00:05