2020年12月03日 公開
2020年12月03日 更新
業績好調なセールスフォースの中でも、特に伸びている日本法人。そのトップを務める小出氏が、CEOになりたいという気持ちを固めたのは、ニューヨークでの経験があったからだという。
※本稿は『THE21』2020年12月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
もともと50歳までに社長になりたいと思っていたのですが、経営者として企業の舵取りをしたいという気持ちが本当に固まったのは、ニューヨークにあるIBM本社の戦略部門で2年間ほど働いていたときです。
私は、大学卒業後、日本IBMに営業職で入社しました。その後、当時の北城恪太郎社長のもとで社長補佐として働いてから、40歳のときにニューヨークに赴任しました。
当時のIBMの会長兼CEOはルイス・ガースナー氏。メインフレームで世界的に大きなシェアを占めていたIBMが、オープンシステムやPCが中心になる時代の流れの中で苦境に陥ったため、初めて外部から招いたCEOが、ガースナー氏でした。
彼はアメリカン・エキスプレスやRJRナビスコのCEOを務めた人物で、ITのバックグラウンドはなかったのですが、見事にIBMを再建しました。その顛末は著書『巨象も踊る』(邦訳は日本経済新聞出版)に綴られています。
私は戦略部門で、ガースナー氏の仕事ぶりに間近に接することができました。彼がしたのは、まず、自社の強みとマーケットを分析して、戦略を立てること。そして、それを実行するための組織を作る。そのうえで、組織を任せる人を選んでいました。
当たり前と言えば当たり前で、極めて論理的なのですが、日本では真逆のことをしている企業が多いと思います。「彼もそろそろ引き上げてやらないと」などと、まず人に注目し、その人にポジションを与えるために組織に手をつけ、それから戦略を考えることがよくあります。
その後、49歳で日本ヒューレット・パッカード(HP)の社長に就任したときに私が最初にしたのは、ガースナー氏と同じく、戦略立案でした。
まず、「HPってホームページのことですか?」と聞かれるほど認知度が低かったので、ブランド戦略を立てました。ちょうどパソコンの工場が東京都昭島市にあったので、「MADE IN TOKYO」を打ち出し、クオリティの高さをアピールしたのです。
本社からはコストの低い外国で生産するよう言われましたが、クオリティが高いと故障が少なく、交換部品やコールセンターの人員が少なくなるので、結局はコストが低くなると説得しました。
その後、長年の友人であるセールスフォース・ドットコム創業者のマーク・ベニオフ氏の誘いで、同社の日本法人のCEOに就任したときにしたのも、まずは戦略立案です。
当時は顧客ごとの製品のカスタマイズがかなり多いなどの課題があったので、それを解消し、さらに成長するための戦略を立てました。CEOに必要な能力はたくさんありますが、中でも重要なのは戦略を立てる能力である。そのことを、ガースナー氏から学びました。
更新:11月24日 00:05