2018年09月21日 公開
2018年09月27日 更新
他人に左右されることなく、自分の考えた通りに仕事を進める姿勢は、若い頃から一貫したものだ。
「映画は独裁じゃなきゃ撮れないよ。他人の意見を聞いていたら撮れない。
キャメラマンだと、監督にサジェッションはするけれども、全部は受け入れられない。我慢しないといけない。でも、自分で監督をやって、キャメラマンも自分がやるとなると、これほど便利なことはない。自分が良しとしたことをやればいいんだから。
他の映画でやっていることをやるのは大っ嫌いなので、芝居の作り方から何から、自分なりに新しい方法でやっている。もちろん、過去の名作の『あそこはよかったな』というシーンが頭に浮かんで、それを自分なりに咀嚼して使っているところはありますよ。黒澤さんだって誰だって、そうやって先人たちを乗り越えてきたんだから。
自信過剰なくらいなのは昔からで、キャメラマンなのに、監督よりも先にOKを出したりもしていたね。
現場には、『カット!』『OK!』『次こっち!』というような、リズムというか、テンポがあるんだよ。テンポを良くするために『OK!』と言っていると、それを嫌がる監督がいるんだよね。OKを出すのは監督だ、と。
それで、『OK!』じゃなくて『ハイ!』と言うようにしたら、現場のテンポが落ちた。1週間くらいすると、向こうから『OKでいいから』と言ってきたよ。
監督には『どうだろうな……。もう1回撮っとこうか』というようなタイプが多いんだけど、俺は一発OK。異色だろうね。一発OKにするために、その前に俳優やスタッフとご飯を食べたりして、和やかな雰囲気を作って、自分の考え方を話しておくわけだ。
撮影は多重カメラを使ってワンシーンワンカット。編集の段階でカットを割る。要するに、撮っているときには、もう頭の中で編集ができているということだよね」
木村氏の映画作りに対するスタンスに強い影響を与えたのは、何といっても黒澤明だと話す。
「撮影には台本を持って行かない。それは、黒澤さんもそうだったの。
深作欣二さんとか、降旗康男さんとか、『八甲田山』を監督した森谷司郎さんとか、色々な監督から学んだことはあるよ。けれども、一番は、若い頃に撮影助手としてついていた黒澤明さんだろうな。黒澤明は神だよ。悩んだときは、『黒澤さんだったら、どうするかな』と考えるよね。
18歳で東宝に就職して最初の仕事が、黒澤さんが監督した『隠し砦の三悪人』の撮影助手だったの。それで、黒澤さんを見て『すごいな』と思ったから、映画の道から外れずに今まで来たわけ。そのときにロクでもない監督に出会っていたら、映画なんて辞めていただろうね。
黒澤さんのすごさは簡単には言えないけど、オーラを感じたな。怖かったよ。俺なんか『でこ助』って呼ばれてた。
そしたら、ある日突然、『大ちゃん』と呼ばれた。黒澤さんが可愛がっている小道具の人のことかと思っていたら、また大きな声で『大ちゃん!』と呼ぶ。振り向いたら、黒澤さんはサングラスをかけているから、どこを見ているのかわからないんだよ。3回目に俺のところに来て、『お前だよ!』と肩を叩かれた。そのときは泣いたね。ついに名前を呼んでもらえた、って」
最後に改めて、ビジネスパーソンに向けて、『散り椿』の見所を話していただいた。
「『散り椿』は、ビジネスパーソンが観れば、どこか感じるところがあると思うよ。意見を具申して受け入れられず、浪人にならざるを得なかったりするのは、今とあまり変わらないんじゃないかな。社会の構造は、結局は同じなんだよ。
ただ、当時の人は、失敗したら腹を切らなければならないという覚悟をもって行動している。ところが、何の覚悟も決めずに物事をやっているのが現代じゃないか。覚悟くらい決めろよと、と思うよね。
少なくとも俺は、監督としてでも、キャメラマンとしてでも、関わった映画で自分の評価が落ちるようなことがあれば、それは映画を辞めるときだという覚悟をもって、79歳までやってきたよ」
更新:11月22日 00:05