2011年11月24日 公開
2024年12月16日 更新
《 『THE21』2011年11月号 より 》
<写真:30歳ころ、起業家として成長を続けていた時期の松下幸之助>
松下幸之助は、9歳から火鉢店で丁椎奉公を始め、その3カ月後には「五代(ごだい)自転車商会」という自転車店で奉公を始めた。当時の自転車の位置づけは、いまでいう自動車のようなもの。その多くは輸入品で、値段も1台100円から150円ほどした。これはいまの金額にするとおよそ4~50万円というから、かなり高価な商品だということが理解できるだろう。幸之助はこの自転車店で、およそ6年間奉公をしている。
当時の流行の先端の商品に触れていたのだから、そのまま奉公を続けてもおかしくはない。ゆくゆくは番頭になり、さらにはのれん分けを認めてもらい、自分の店をもつ......。この時代の多くの人なら、きっとそんな未来を思い描いたに違いない。
だが、松下幸之助はそうはしなかった。きっかけは、自転車店での奉公の使いの途中、当時大阪の街を走り始めた市電を目にしたことだった。その新しさ、便利さに、幸之助は「やがて自転車は電車にとって代わられるだろう」と直感し、「これからは電気の時代になる」と確信する。彼は、電気に携わる仕事に関心をもつようになった。
悩んだ末に、彼は転職を決意する。そして、1910年、15歳のときに五代自転車商会を離れ、臨時でセメントの運搬工を務めたのち、大阪電燈(のちの関西電力)に入社したのだった。
親の命で奉公に出された幸之助にとって、この転職は初めて自らが下した大きな決断だったといえる。このとき幸之助が自分の直感に従っていなければ、大企業家・松下幸之助は誕生していなかったかもしれない。
◆ 「ベンチャー起業家・松下幸之助」に学びたいポイント 現状で判断せず、自分のひらめきに従おう! |
大阪電燈に勤め始めてから、幸之助の実務的な能力が本格的に開花する。当初は見習い工としての入社だったが、3カ月後には工事担当者に昇格した。そして、22歳のころには、各担当者のやった仕事を翌日、検査してまわる検査員という役職に就く。
だが、この検査員に昇格したことが、幸之助が起業家に転じるきっかけの1つになった。検査員は責任は重いが楽な仕事で、少し道順のよいときは9時ごろ会社を出て2~3時間で済んでしまうこともあった。憧れてなった検査員の仕事ではあったが、幸之助には物足りなかったのだ。
じつは検査員になる少し前に、幸之助は電気ソケットの改良をしてみたいと考え、いろいろ工夫をしていた。自ら試作品をつくり、上司である主任に、いまでいうプレゼンテーションを行なったのである。
自信はあった。ところが、そのソケットをみた主任から、「まだあかんな。もっと工夫せな」とにべもなく突き返されてしまう。
のちになって幸之助は「あとあと考えてみると、自分がつくった試作品にはいろいろと問題があった」と述懐しているが、このときはそうではなかった。夜も眠れないほど悔しい思いをしたという。そして検査員の仕事に物足りなさを覚えてから、このソケットのことをいつとはなしに考えるようになった。それが独立しようという決意につながる。
意外に思えるかもしれないが、松下幸之助は勝算があって独立を決めたわけではない。手許にあったお金は貯金と退職金を合わせて95円ほど。現在の価値にしておよそ150万円 弱の金額である。当時でも満足な機械1つ買える資金ではない。
しかし彼は、安泰であっても退屈な毎日を送るより、自らの創意工夫を活かせる道を選んだのだ。松下幸之助の起業は文字どおりベンチャー(冒険)だったことが理解できるだろう。
◆「ベンチャー起業家・松下幸之助」に学びたいポイント 「安泰」よりも「充実」をめざそう! |
『私の行き方考え方 わが半生の記録』
松下幸之助 著
税込価格 590円(本体価格562円)
自らの生い立ちから丁稚奉公、松下電器(現パナソニック)の創業、そして会社が進展していく昭和8年までの数多くのエピソードを交えながら事業成功の秘訣を語る半生の記。
更新:01月18日 00:05