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原発事故によって避難を余儀なくされた人たちの「今」 〈4〉

2016年03月17日 公開
2023年01月12日 更新

藻谷浩介(日本総合研究所主席研究員)

 

 これらの設備の隣には、直径約30mの円形のエアドームが2棟ある。水耕栽培による植物工場だ。1棟ではサラダ菜を、もう1棟ではホワイトセロリを栽培している。

エアドームの中が水耕栽培の植物工場になっている

 

 施設の見学後、プレハブをつないだ仮設の建物内で、半谷氏の話を聞いた。

「ここは、2013年3月11日に、復興を担う若手人材を育成することを目的にオープンしました。その手段として、小中学生には体験学習をしてもらい、高校生や大学生に向けては社会起業塾を開いています。また、企業の社員研修も行なっています。ここで成長した人材が福島の復興を担う社会起業家として活躍し、そういう人たちに憧れて、子供たちがここで学び、成長していく。そういう連鎖を生みたいと思っています」(半谷氏)

南相馬ソーラー・アグリパークの半谷栄寿代表

 

 ツアー参加者全員に、高校生による社会起業の例として、『高校生が伝えるふくしま食べる通信』の第3号(2015年秋号)が配られた。県内の農家などを取り上げた20ページほどの冊子で、取材や編集などのすべてを高校生が行なっている。この号で特集しているのは、天栄村の農家が育てる南米原産の根菜・ヤーコンだ。

「初めは細かく指導しましたが、すぐに力をつけてくれました。高校生には、人件費はいいので、限界利益は出すように言っています。大学生の場合は、人件費も含めて、利益を出すように求めています」(半谷氏)

 南相馬ソーラー・アグリパークの大きな特徴は、官民一体となっていることだ。半谷氏が興した福島復興ソーラー〔株〕と、風評被害払拭と農業再生のために植物工場の建設を計画していた南相馬市とが、一緒になって設立した。

 福島復興ソーラーは太陽光発電事業を行なっている。その電力のうち、一部を自家用として植物工場に供給し、残りを余剰電力として販売して利益を得る。その利益を「福島復興ソーラー・アグリ体験交流の会」に寄付し、人材育成のための活動に充てている。一方の南相馬市は、植物工場を建設し、地元の農業法人に無償貸与して生産を行なっている。収穫したサラダ菜とホワイトセロリは全量をヨークベニマルに出荷している。

 半谷氏の話が終わり、バスに戻ったツアー参加者に、藻谷氏が感想を述べた。

「南相馬ソーラー・アグリパークの植物工場は、復興交付金を使って建設されました。しかし、事業は自立したビジネスとして成立するように、半谷さんたちが無給で奮闘している。そして、人材育成の場になっている。

 本来は、放射能によって土壌が汚染されてしまっても農業をするためにはどうするか、ということで、植物工場に公的なお金を投入したのに、人材育成をしているわけです。こういう場合、『本来の目的と違うじゃないか』という批判が出るのが常です。しかし、ここでは、それを上回る熱量によって事業が続いている。驚きました。

 世の中には、『補助金を使うのは絶対にダメだ』と言う人もいれば、補助金を使うことしか考えていない人もいます。しかし、真実はその中間にある。補助金を使いながら、それを最大限に活かすと、こういうことができるんですね」(藻谷氏)

 

[ロイヤルホテル丸屋]
国の現場感覚のなさに怒る南相馬市長

 最後に向かったのは、JR常磐線「原ノ町」駅前にあるロイヤルホテル丸屋。その広間で南相馬市長の桜井勝延氏の話を聞いた。

 常磐線は東京の上野駅と仙台駅を結ぶ路線だが、取材をした時点では、原ノ町駅は上野駅とも仙台駅ともつながっていない。途中の竜田駅~原ノ町駅と相馬駅~浜吉田駅の区間が、大震災以降、寸断されたままになっているからだ。原ノ町駅~相馬駅という、間に2つの駅しか挟んでいない短い区間は営業しており、列車が往復している。

 桜井氏は2010年に南相馬市長に初当選し、2014年に再選。現在2期目を務めている。

ツアー参加者に向けて熱弁を振るう南相馬市長の桜井勝延氏

 

「東日本大震災が起こったとき、私は新米首長でした。貴重な経験をさせていただいたと思っています。

 大震災翌日の(2011年)3月12日に、福島第一原発から20km圏内に避難指示が出されました。それによって約1万4,000人が強制的に避難させられたのです。自治体別で言えば、浪江町に次いで、南相馬市が2番目に人数が多かった。4月22日には警戒区域に設定されて、避難した人たちは自宅に帰れなくなりました。

 この避難指示は、計画的避難指示ではなく、直ちに避難しなければならないというものです。たとえば酪農家や畜産農家は、計画的避難なら家畜を処分してから避難することもできたでしょう。しかし、それができなかった。残されたウシたちは餌を与えられず、柱をかじってまで生きようとしながら、死んでいったのです。ブタは共喰いをしました。あるいは、瀕死になっているウシを食べました。その惨状に農家はどういう思いを抱いたか。私は27年間、酪農をやってきましたから、その苦しみがよくわかります。

 南相馬市では、今も3万人弱が避難生活をしています。『福島の復興なくして日本の再生なし』と政府は言っています。それでは、国は本当に原発事故の対応をできているのか。私にはそうは思えません。たとえば、(2015年)9月に(茨城県)常総市で大雨による大水害がありましたね。そのとき、こちらでも大雨が降りました。そして、飯舘村から南相馬市に、国がきちんと管理しているはずの放射性廃棄物の入った黒い袋が441体も流されてきたのです。

 国が除染をしているのは、これまでに警戒区域や計画的避難区域に指定されたことのある地域だけで、その他は自治体が除染を行なっています。南相馬市では、黒い袋はフェンスで囲んで保管していて、大雨のときも流されませんでした。なぜ、国が除染をしている飯舘では野ざらしにしているのか。

 除染によって出た放射性廃棄物は、3年間、仮置場に置かれます。国は、3年間で運び出すからと、地権者と3年間の契約をするように指導していました。しかし、3年が経って契約が切れても中間貯蔵施設に移すことができない。違法状態にするわけにはいかないので、地権者に契約を延長してもらう交渉をしなければなりません。その交渉に、職員や私が走り回って頭を下げています。

 霞が関の官僚や政治家には、現場のことをわかってほしい。現場で汗を流している人の顔を見てほしい。残念ながら、彼らには現場感覚がないと感じざるを得ません」(桜井氏)

 短い時間だったが、桜井氏の熱弁には鬼気迫るものがあった。

 今回のツアーでは、広域にわたる放射能汚染という、日本史上初めての、世界でも稀な事態の中で、暮らしの拠点を奪われた人たちがどのような思いを持って生きているのか、その一端を垣間見ることができたように思う。もちろん、藻谷氏が言うように、住んでみなければ本当のところはわからない。先祖代々、その地に住み続けてきた人でなければ感じられないことが、多くあるだろう。一度のバスツアーで窺えることはわずかだ。しかし、現地に足を運び、現地の人の話を聞かなければ、何も知ることはできない。原発事故後の福島にまだ足を運んだことがない方は、ぜひ、一度訪れてみていただきたい。

《写真撮影:まるやゆういち》

著者紹介

藻谷浩介(もたに・こうすけ)

〔株〕日本総合研究所主席研究員

1964年、山口県生まれ。日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)、米国コロンビア大学留学などを経て、現職。2000年頃より地域振興について研究・調査・講演を行なう。10年に刊行した『デフレの正体』(角川新書)がベストセラーとなる。13年に刊行した『里山資本主義』(NHK広島取材班との共著/角川新書)で新書大賞2014を受賞。14年、対話集『しなやかな日本列島のつくりかた』(新潮社)を刊行。

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