
ジュディス・バトラーの『アセンブリ―行為遂行性、複数性、政治―』 Notes Toward a Performative Theory of Assembly は、現代思想における最も影響力のある哲学者の一人であるバトラーが、2010年代初頭のオキュパイ運動やアラブの春、あるいはブラック・ライヴズ・マター運動の勃興といった、グローバルな抗議の時代に応答し、政治的集会の理論的基盤を再定義した著作である。
バトラーは『ジェンダー・トラブル』以来、そのラディカルな構築主義、すなわちジェンダーが社会的な規範の「遂行性」によって形成されるという理論によって広く知られてきた。しかしこの理論は、しばしば「すべては言説であり、物質的な身体は重要ではない」という粗雑な誤解に晒されてきた。この誤解は、身体のリアリティや物質的な生を重視する論者から、バトラーを敬遠させる一因ともなっていた。
だが、バトラーは実際には一貫して身体の政治性、とりわけその「可傷性」と、それが社会的にいかに不平等に扱われるかという「不安定性」の分析について思索してきた。
本書の中心的主題は、ネオリベラリズムが強いる個人主義と「自己責任」の論理、そしてそれによって分断され、不安定化させられた諸個人の身体が、いかにして公共空間で物理的に集結し、相互依存的な抵抗の主体となり得るかを、ハンナ・アーレントの政治哲学を批判的に参照しながら解明する点にある。
本書の論理構成は、まず「不安定性」という現代的状況の診断から始まる。ネオリベラリズム下の労働の非正規化、社会保障の解体、緊縮財政、そして公的インフラの私有化は、すべての人間の身体が本質的に「可傷的」であり、他者や環境に依存しているという根源的な事実を隠蔽し、その負担を特定の人々に不均衡に分配する。
バトラーの分析によれば、政治的な問題とは、この普遍的な可傷性に対する社会的な「承認」が、人種、ジェンダー、階級、障害の有無、あるいは移民の法的地位によって極めて不均衡に分配されていることである。ある身体は「嘆きうる」ものとして手厚く保護され、その生は価値あるものとみなされる。
その一方で、別の身体、例えば移民、非正規労働者、トランスジェンダー、あるいは国家に抗議する人々の身体は、その生命が失われても構わない「不安定な」存在として、公的な承認の枠組みから意図的に除外される。この承認の境界線を引き直すことこそが、社会を前進させるための政治的課題である。
本書の論理的飛躍は、この絶望的な状況分析から、抵抗の可能性としての集会へと移行する点にある。バトラーは、集会を単なる政治的要求を掲げるための手段としてではなく、それ自体が目的論的な政治的実践であると捉え直す。
不安定な身体が、あえて公道や広場といった物理的な空間を占拠し、集結するという行為そのものが、ネオリベラリズムの個人主義的イデオロギーに対する最も強力な拒絶である。この集会は、諸身体の「相互依存」を可視化する遂行的実践であり、それによって既存の承認の境界線を引き直そうとする闘争なのだ。
この論理構成の分析を通じて明らかになるのは、バトラーが『ジェンダー・トラブル』で提示した「遂行性」の理論を、個人のアイデンティティのレベルから、公共的な身体の政治的実践のレベルへと、ラディカルに拡張・発展させているという事実である。
本書の理論的骨格の多くは、ハンナ・アーレントの政治哲学を発展させたものである。アーレントにとって、政治とは、複数形の人間が言論と行為を通じて共に公的領域に現れることによってのみ成立する。バトラーはこのアーレント的な枠組みを継承しつつも、決定的な点でそれを批判的に組み替える。
アーレントの「現象の空間」は、しばしばポリスの「市民」という、言語能力を持つエリート的、あるいは言語中心的な主体を前提にしていると批判されてきた。そこでは、言語を持たない存在、あるいは公的な「言論」の資格を剥奪された存在は、政治の領域から排除される。
これに対しバトラーは、現代の政治的アセンブリの主体とは、まさにその「市民」の枠からこぼれ落ち、言語を持つ以前に、その身体の存在自体を公的に承認されていない「不安定な」人々であると主張する。
タハリール広場やズコッティ公園を占拠した人々、ブラック・ライヴズ・マターのデモ、障害者の権利運動。これらは、しばしば沈黙し、ただそこに居るだけの身体の集積であるかもしれない。しかしバトラーの論理によれば、その身体の集積こそが、自らを公的な現象の空間に「現れさせる」という、最も根源的な政治的活動なのだ。
本書の構造的な射程は、現代の政治運動が直面するジレンマ、すなわち「オンライン」の言説と「オフライン」の身体的実践との関係性にも及んでいる。現代は、個人の内面的な「エモさ」や、刹那的な共感を呼ぶ「弱者の語り」が、ソーシャルメディアのアルゴリズムによってインスタントに生産・消費され、氾濫する時代である。
しかし、これらの言説は、しばしば物理的な身体の相互依存から切り離されている。バトラーの議論の重要性は、まさにこの点にある。
彼女が集会と呼ぶのは、オンライン上のLikeの集積やハッシュタグの連帯ではない。それは、警察による暴力の危険に晒され、天候に左右され、疲労し、飢え、そして互いの身体的ケアを必要とする、生身の人間の物理的な集結である。この身体性の強調こそが、バトラーの構築主義が決して身体をないがしろにするものではなく、むしろ、その身体がいかにして政治的な主体として「現れる」かの条件を問うてきたかを明確に示している。
本書の論理が示すように、可傷性への承認の不均衡な分配という境界線を引き直す闘争は、最終的には、言説の空間ではなく、アーレント的な意味での「現象の空間」を、リスクを負った諸身体が物理的に占拠することによってしか遂行されない。本書は、その身体的実践の政治的・哲学的基盤を強固に打ち立てた点で、現代思想における画期的な達成を示していると言えるだろう。
更新:11月04日 00:05