
戦後80年という節目を目前に控えた今、私たちは戦争の記憶をいかに継承し、あるいは直視してきただろうか。
朝日新聞取材班の『ルポ 戦争トラウマ』は、この問いに対し、これまで日本社会が半ば意図的に不可視化してきた領域から、重い答えを突きつけるルポルタージュである。
本書の中心的主題は、アジア・太平洋戦争の従軍兵士、あるいは空襲や沖縄戦、原爆といった極限状況を生き延びた市民が受けた精神的毀損、すなわちトラウマが、戦後社会においていかに個人の問題として矮小化され、そして最も閉鎖的な空間である家庭において暴力や生きづらさとして噴出し、子や孫の世代にまで連鎖してきたか、その実態を当事者たちの肉声によって描き出すことにある。
本書は、情緒的な平和主義や抽象的な反戦論とは一線を画し、戦後は終わっていないという常套句が、具体的にどのような精神の継承として現在に続いているのかを冷徹に暴き出す。
本書の構成は、トラウマが時間と空間を超えて伝播する過程を丹念に追う形で組み立てられている。議論の核心をなすのは、第三章から第五章にかけて展開される世代間伝達のルポルタージュである。
第三章「父が家に持ち帰った心の傷」では、戦場での非人間的体験によって感情や共感性を麻痺させられた復員兵たちが、家庭内でいかなる暴力装置として振る舞ったかが、その子どもである第二世代の視点から克明に語られる。彼らにとって家庭は安息の場ではなく、父という名の戦場そのものであった。
続く第四章「第3世代が語る『戦争体験』」と第五章「世代を超える負の連鎖」は、本書の射程をさらに深く、現代へと押し進める。祖父の体験を直接知らないはずの孫世代が、なぜか理由の定まらない生きづらさや精神的な不調を抱え、自らのルーツを辿る中で、それが祖父の未処理のトラウマに起因する世代を超えた影響、すなわちエピジェネティックな影響である可能性に突き当たる。
本書は、当事者たちが自らの苦しみの根源を言語化し、ベトナム戦争後のトラウマ研究などの知見を得て、ようやくあれは戦争トラウマだったと認識し直すプロセスを丁寧に描き出す。さらに本書は、その視点を兵士のトラウマだけに限定しない。
第六章「市民が見た沖縄、原爆、大空襲」では、非戦闘員が受けた限界環境の記憶が今なお生々しく残存していることを示し、第七章「日本軍が外国で残した爪痕」では、日本が加害者としてアジア諸国に残したトラウマへと視点を広げる。これにより、戦争トラウマが元兵士という特定の属性に留まらず、被害と加害の双方において、戦後日本社会の基層を形成している構造的な問題であることが立体的に浮かび上がる。
本書の最大の功績は、戦後日本社会が犯した決定的な失敗を告発した点にある。それは、ごく一部の例外を除き、戦争体験者の精神的毀損を社会全体で受け止め、文脈化することを怠ってきたという事実である。
本書で描かれる復員兵たちは、国家の命令によって前線で暴力装置になることを強いられた被害者であった。しかし戦後、彼らが戦場で何を強いられ、何を行い、その結果としていかに心を壊されたのか、その痛みを社会的に位置づける作業は十分に行われなかった。
戦後民主主義は、彼らを軍国主義の被害者あるいは平和を脅かした加害者という二元論的なラベルで処理し、その内面で持続する地獄を直視しようとはしなかった。彼らの悪夢、酒浸り、家族への暴力は、社会的なトラウマの発露としてではなく、個人の道徳的欠如や性格の問題として処理されてきた。この文脈化の失敗こそが、トラウマを家庭という密室に押し込め、妻や子といった最も弱い存在へと転嫁させる構造を生み出した。
本書が描き出す家庭内暴力の被害や、第二世代・第三世代の生きづらさは、個々の家庭の悲劇であると同時に、社会が引き受けるべきコストを個人に転嫁した結果としての「人災」である。
被害と加害のバランスはとても難しい。本書は、父や祖父を一方的に加害者として断罪するのではない。彼ら自身が国家による巨大な暴力の被害者であり、その被害の痛みを適切に処理する術を与えられなかったがゆえに、最も近しい他者への加害者とならざるを得なかったという、痛ましい連鎖の構造を解き明かしている。
戦後80年が経過し、当事者たちがベトナム戦争の歴史などを参照しながら、自らの体験をようやく語り始めたという事実は、我々がいかに長くこの問題から目を背けてきたかを物語っている。このルポルタージュは、この沈黙の構造を破砕し、被害者たちがまだ生きているうちにそれを生産し直す責任の一端を、ジャーナリズムとして果たそうとする試みである。
本書を読み終えた我々は、知ってしまった者として、この歴史と無関係ではいられない。ここで想起すべきは、本稿の主題とも通底する、歴史学者テッサ・モーリス=スズキの提唱する「連累」という概念である。
連累とは、過去の不正義や暴力行為、例えば兵士を極限状況に追い込んだ国家の行為やその結果としての家庭内暴力、に対して、後世の我々が直接的な責任を負うことはないとしても、その不正義の結果として形成された現在の社会構造、すなわちトラウマが不可視化されてきた戦後社会に生き、その恩恵を受け、あるいはその歴史の風化に無意識的にせよ加担しているという点で、その歴史と無関係ではいられないという倫理的立場を指す。
責任が過去の行為に向けられるものであるのに対し、連累は未来に向けられる。それは、私たちが過去の過ちの帰結を引き受け、現在においてどのような応答を選択するかという、未来志向の義務である。
『ルポ 戦争トラウマ』は、まさにこの連累者としての立場を読者に突きつける。我々は、復員兵の苦しみや、その家族が耐え忍んだ暴力の連鎖を知らなかったかもしれない。しかし、本書を通してその事実を知った以上、もはや無関係な傍観者ではあり得ない。我々は、彼らの痛みが文脈化されないまま放置されてきた社会構造に連累している。
本書の当事者たちが自らの体験を生産し始めたように、我々にはその言葉を受け止め、社会の公的な記憶として位置づけ直す責任がある。それは、戦後日本社会がその成立過程で見捨ててきた無数の声を聞き取り、戦争の真の終結とは何かを問い直すための、痛みを伴う倫理的な実践への招待状である。
戦後は終わっていない。なぜなら、そのトラウマの連鎖は今なお続き、そして我々はその構造のただ中に生きる連累者であるからに他ならない。
更新:11月04日 00:05